家族とは2

 


第二話

親と子が存在する家族が誕生。

ここで一つ・・・。
できることなら娘の顔を見せたかった人がいる。
他界した嫁の「おじいちゃん」です。
孫(嫁)の子ども「ひ孫」の顔を一度でもいいから見てもらいたかった。
叶わぬことを百も承知で言っているのだが、おじいちゃんの存在は物凄く
大きいのです。
今、娘がいるのも「おじいちゃん」がいたから・・・。
だから、見てもらいたかった。
見せておじいちゃんの笑顔を見たかった。

出会いと別れのこの両極端なできごと。
ちょっと厳しすぎます。
このできごとを、繰り返し感謝することで強く生きれる人間になるのだと思う
そして、人を大切にできるのだと思う。
「これからも、家族で手をあわせにいきますね」
「おじいちゃん、ありがとう!」



翌日、仕事が終わったらビデオカメラと入院セット(予め準備済)を
もってすぐに産婦人科へ行きました。
部屋の中に入ると、既に娘はベビーベットにいました。

まだ、たまにしか目を開けないらしく、しばらく「じっと」見てました。
ほんとに小さくほんとにかわいいく、多分すでに「親バカ」丸出しだった
のでしょう
ビデオカメラを片手に、赤ちゃんの「顔」「指」を触ったりしていました
その時、うっすらと目を開けたのです。
はじめてほんとうのご対面とも感じました。「よっ!」って言った記憶です。
嫁とはいろんな会話をしたと思いますが、内容は覚えていません。

まったりしながら、しばらく時間が経ち私の両親がやってきました。
両親とも何を話したのか覚えていませんが、とにかく幸せの時間と空間を
過ごしていた記憶を覚えています

娘を初めて抱っこしたときの事はいまでも忘れません。
小さいな~あったかいな~っと思いつつも、体ガチガチで抱っこして
られなかったから
それに対し嫁が娘を抱っこしている姿を見たときは、「お~お母さんだ」
って思いました。
娘を抱っこしている嫁を見たとき身震いしたほど幸せを感じたことを
覚えています。
この時、「不安0」に対し「幸せ100」です。

私の両親から見ると私たちの娘は、「どんな存在なんだろう」って思いました。
子どもの子ども。孫の存在ってやつです。
「一般的に祖父母にとって、孫は子供以上に可愛いと言われる」当然である。
「ただ、大切な存在はやはり自分の子であると言われる」それも当然である。
全ての人が当てはまる訳ではないと思うが、かなりの確率で当たってる気がする。

ではここで、娘の名前について書こうと思います。
実は産まれる3か月前くらいには、ある名前に決めていました。
ちゃんと夫婦二人で考えた名前です。
しかし産まれる日が近づくにつれ、何かしっくり来てないと二人とも
思っていたのです。
ある日の夜、名前を再び夫婦で考えていました。
そして、ついに決まったのです。この場では名前は書きませんが、
まずは二人とも気に入った漢字があったのです。
その漢字の読みのあとにどんな読みが合うか、50音を順番にあてて
口ずさみました。
50音当てはめてみたのですが、気が付いたら50音言い終わっていました
では、もう一度・・・。
「あれ?かわいくない?今のいいんじゃない?」
夫婦二人で息が合いました
あれ?じゃあ、嫁の名前の一文字をそのまま使えることに気づきました。
その時、何か運命みたいなものを感じました。
親が付けた名前の一部を子どもに使えるなんて最高ではないでしょうか?
読みだけを聞くと現代風っぽい感じですが、漢字にすると少し落ち着いた
感じの名前なんです。
始めのうちは、ちょっと読みにくいかな?っとも二人で思いつつも、
二人とも気に入ったので、決定しました。
もちろん、字画も悪くなかったです。
漢字を見て読み間違えることもありません
最初は名前を言うと「変わってるね」って言われることが多かったです。
でも「かわいい名前だね」の声もたくさん聞くようにもなりました。
何はともあれ今でも自慢の名前です。
ほんとこの名前にしてよかったとずっと思っています。
娘からしたらどうかはわかりませんが、きっと気に入ってくれると思います
一生自分の名前とは付き合っていかなければならないから、いい名前が付けれて
良かったです
親にもらった(そうでない人もいるが)名前。
名前で性格が決まる、人生が左右されるとまで言われいる。
信じるか信じないかは勝手だが、名前のせいにするのは考えものだ
もちろん限度にもよるが・・・。
だからこそ、ありがとうと共に大切にしますと言いたい。
だって、名前はその人の存在を一番長く世に伝えられるものだから。
名前は、「生きている」「生きていた」証しであると信じたい