家族とは3

退院の日。

退院の次の日?ちょっと記憶が定かではないのですが、嫁のお母さんが
広島から愛知へ約一週間来てくれることになったのです。
聞いたときいろんな意味で凄く嬉しかった。

子どもが生まれるまで広島の実家に帰ると思っていたけど、帰らなかった嫁。
どんな理由なのか、とくに聞こうともしなかったが嫁の言葉通りにした。
今思えば2人で楽しく過ごせるのは、この機を逃したら当面なかったと思うと
感謝でしかない
不安を抱え肉体的にも精神的にもかなり疲労していた嫁にとってお母さんの
存在・言葉はかなりパワーを貰ったと思う。
そして、ここまで成長した自分。そして自分の子を「見せれる」「見てもらえる」
んだからなおさら嬉しかったと思う。

お母さんが来てからの一週間は、感謝の連続でしかなかった。
全然しらない土地で昼間は一人で買い物に出かけたり、家では嫁と娘をしっかり
見てくれて夜はお風呂にも入れたりしてくれた
(横で真剣に洗い方を見ていた自分)
時折横で見ていたわたしは、やっぱ親子っていいな~って何度も思いました。
お風呂。ミルク&げっぷ出し。おむつ替え。などなど、初めて見ることだらけだった。
そう言えばミルクは入院中に娘に飲ませましたよ。飲また時はちょっといい気分。
この時、「不安100」に対し「幸せ50」です。
娘の行動。
「目を動かす」
「頭を動かす」
「手を動かす」
「体を動かす」
「足を動かす」
「泣く・笑う」
「声を出す」
五体満足ならば、ごく当たり前の動作。
(五体満足?身体の五つの部分。仏教では頭・両手・両足)
みなさん幸せと感じたことありますか?
普段なかなか感じることは出来ないのが普通でしょう
こんなごく当たり前の動作をしてくれている娘をみてるだけで
凄いと思ってしまいました。そして喜びを感じました。
そんな娘をビデオカメラでどれだけ撮ったことか。

話が脱線してしてしまいますが、
ここで、辛いときのわたしの対処法を書こうと思います。
「精神的」「肉体的」両方に効く「ある暗示」です。
簡単に言うと、ある事を自分に言い聞かせることです。

私は「五体満足である」

たったこれだけです。
たったこれだけすが、わたしにとって特効薬と言える「暗示」
なのです。
とにかく「五体満足」であることに幸せを感じ気力を奮い立たせる
のです。
なぜ?このように思うようになったかと言いますと、キッカケが
あるんです。
嫁が独身時代「介護の仕事」をしていたからです。
そうです。みんな体が不自由な方々なのです。
嫁は仕事のことを多くは語らなかったのですが、いろいろ伝わってくる
ものがありました。
「重たいの」とか「体洗うんだ」とか「~へ行ったんだ」など、
いろんなことを聞きました。そうです。普通の生活をあたり前のようにできないのです。
我々は普通の生活をあたり前のようにしているので、なかなか
気が付かないだけで「五体不満足」な人は人の助けがいるのです。
それは極端な話だよって思う人もいるかもしれませんが、
親からもらった「体」に感謝と大事にしなければいけないと思うように
なりました。
「五体不満足」ということは?「時間」がかかるってことです。
なにげないことに、時間がかかってしまうんです。
時間がかかるってことはそれだけ出来ることが少ないってことです。
例えば、普通の人が1分で出来ることが、5分かかるとしましょう。
(普通の人の5倍くらいかかってしまうのはざらだそうです)
単純ですが仮に10年間で差を見て見ますと、すごい時間になります。
「健全者」が10年かかるところを、50年もかかることになります。
体が不自由ということは、「時間に差がうまれる」ってことです。
なぜ?そこまで言うのかといいますと、

どんなに頑張っても「時間だけは絶対は取り戻すことはできない」のです。
よく「時間は平等に与えられている」と言いますが「使える時間は平等ではない」
のです。

だからこそ、私は辛いとき「五体不満足」の人を考え気を奮い立たせる
ことが出来るのです。
わたしは慢性の腰痛持ちでして、腰の痛みの時は無理をしないように
しています。

もしあなたが健康があたり前だと思っていたら健康を維持することはできないでしょう。
だって、健康でいたいと思ってこそ、はじめて健康を維持しようとするから
だから「あたり前のことに感謝できた時、他人を思いやることが出来るのだろう」
ようするに「相手の立場にたたなければ相手の気持ちはわかりえない。
「健全者どうしの争い程みじめなものは無いのかもしれない」

話がそれてしまいましたが、娘の何気ないあたりまえ動作は感動であり安心でもある
動きなのです。
そして、元気で丈夫に育って欲しいと心から願っていました。